2017年6月30日金曜日

大好きな雑誌「Zipper」と、もにまるずの話

Zipper(ジッパー)という原宿系の10代から20代前半の女性向けの雑誌がある。もにまる工房にはいつも普通に置いてあるZipperだが、いまのスタッフでもその重要性を知っている人は数人しかいない。Zipperが、もにまる工房にとっていかに大切な雑誌かということを書きたいと思う。いままでの流れから時系列が少し先の話も出てきてしまうが、本当に大切なことだから、いま書きたいから、書くことにする。



2011年から2017年現在に至るまで、Zipperを毎号買っている。こんなに欠かさずに買っている雑誌は他にはない。
Zipperを読むようになったきっかけは、2011年にKERA(ケラ)という雑誌に、もにまるずをプレゼント企画に載せてもらったことから始まる。
KERAも系統が違うものの原宿系の雑誌だ。わかりやすくざっくりいうとZipperは「きゃりーぱみゅぱみゅ」さんで、KERAは「ロリータファッション」だ。

当時の2期生スタッフ(男性)に、もにまるずがKERAに載った雑誌を見せたら、ZipperやFRUiTS(フルーツ)という雑誌を教えてくれた。そのスタッフはストリートや原宿系のカルチャーの中で生きている人で、スナップを見ていると「あ、これ友達だ!」とか「今回のZipper、実は俺が載ってる」とかそういう人だった。
まだ、きゃりーぱみゅぱみゅさんがスナップ写真に載ったりしていた時代だ。次第に大きな紙面に登場するようになり、CDを出し、表紙のカバーガールになる様子をずっと見ていた。CDも全部買っていた。
今のZipperは季刊なので3ヶ月に1冊だけど、当時は毎月出ていた。そのスタッフと一ヶ月ごとに交代でZipperを買って、いつもお昼休みに一緒に読んでいた。2011年の前半は、原宿に詳しい彼と二人でもにまるずを作っていた。

2011年の後半に入ってくる3期生もにスタッフにも原宿好きの女性スタッフがいて、Zipper仲間が増えた。そのスタッフの影響で、次第にZipperのモデル「AYAMO」さんが気になり始めた。「AMO」さんと「AYAMO」さんの二人で「AMOYAMO」という名前でほとんどのページに二人が載っていた。2017年の今でいう双子のmimさんmamさんの「mimmam」さんたちのように。すごくマニアックな内容で申し訳ないが、Zipperへの愛がすごいから許してほしい。
ちなみに、mimmamさんはデザフェスに来てくれて、もにまるずを買ってくれた。急にブースに現れたmimmamさんを見たときは頭が真っ白になった。

男なのにZipperを好きなのが不思議なのだが、あの奇抜な色合いや、モデルさんたちがそれぞれのスタイルを持っているところが好きだ。ひとくちに原宿系といっても様々なジャンルがある。ふんわりしている人もいるし、ビビッドな人もいるし、お姫様みたいな人もいるし、ストリートな人もいる。その多様性があるなかで、時代に合わせて雰囲気が変わりながらも雑誌としてのビジョンがあって、そんなところに憧れていた。もにまるずも、いろんな雰囲気の作品をつくっているけれど全部「もにまるず」だ。

2013年ころから2015年にかけて、もにまるずは色違いの限定品を出すことが多くなった。そのときの色合いの参考としてZipperを見て配色を決めていた。今回は「AMOちゃんっぽい紫でいこう」とか「瀬戸ちゃんっぽいビビッドな色にしたい」とか、そういう会話で成り立っていた。いまでも「AMOパープル」と「AYAMOグレー」という色のボトルが残っている。
キデイランド限定「ネオンピンクうさぎ」や原宿店限定だった「夏のネオンカラーうさぎ」はもろにZipperの影響だ。




2012年には、AMOYAMOのトークショーを見に行くために、仕事を切り上げて女性スタッフと原宿に行ったこともある。
その急いでいる道中で「TOKYO GRAFFITI」という東京の若者カルチャー雑誌に取材され、なんと掲載されたというミラクルも起きた。かつての伝説のスナップポイントといわれた「GAP前」だ。今でいうギラギラの鏡張りの「東急プラザ前」のことだ。
スナップ待ちのオシャレさんたちがGAP前にたまり、自分も高校生だった頃にはGAP前を歩くときは服装と髪型を直して、スカした顔でソワソワしながら歩いたこともあった。その旧GAP前だ。高校生の頃にスナップされたことは一度もない。
その取材はファッションスナップではなく「いままでの人生で一番うれしかったことは?」という質問に対して「自分のキャラクターがゲームセンターに並んだこと」と書いたホワイトボードを書いて、写真を撮られた。成り行きで、なぜかスタッフと一緒に雑誌デビューした思い出だ。

話が少しそれたが、2013年にラフォーレ原宿で開催されたZipperの20周年記念イベントにも行った。そこで瀬戸さんや、YURAさん、きゃりーぱみゅぱみゅさんを生で見ることができた。思っている以上に顔が小さい。まわりにいるのは十代の女の子たち。ものすごい黄色い声が上がっていた。さらにゲストで「でんぱ組」がライブをしてくれた。最高の日だった。

これも2013年、さらにZipper好きが高じすぎて、一緒にもにまるずを経営している森川さんの人脈で、Zipper編集部にご挨拶に行ったことがある。特別すぐに仕事に繋がるような話もなく、どれほどZipperが好きかを語った。そしてもにまるずを30個ほど持って行っていたので、モデルさんたちにぜひ配ってくださいと言ってお預けしてきた。

最後に編集部の方が、付録や出版している本などを何かお土産にくれようとしたのだが、ことごとく持っていて、もらえるものが無くてお互いに笑った。

このとき、自分の好きなものをつくって、好きなひとや好きなことに近づけるという喜びを知った。

この話は、ここでは終わらない。

大好きなAYAMOさんがブログで、もにまるずを紹介してくれた。
https://watabemanabu.blogspot.jp/2013/04/ayamo.html

このときのことは、当時のブログの温度のほうがリアルなのでぜひ読んでいただきたい。

そして現在のコラボラッシュの流れが生まれたきっかけとなる、AYAMOさんとのコラボもにまるずが生まれることになるが、それはもう少し先の2014 年の話。

尋常じゃないくらい「好き好き」言っていると、まわりの方々の力で夢のようなことが起きる。
頑張っていると、誰かが必ず見てくれている。ただ思っているだけではなく、行動して、発信する。
そうすると夢が現実になる。そのときの嬉しさと、快感と、夢のような気持ちは、活動をしているご褒美のようなものだ。

これだから、つくることは最高なんだ。

2017年6月27日火曜日

憧れのオモチャ屋さん

大学を卒後して初めてのデザインフェスタも大成功に終わり、嬉しい連絡をいただいた。上野のヤマシロヤのスタッフさんから店頭販売のお誘いだった。これは本当に嬉しかった。
20116月、もにまるずをお取扱いしてくださっているお店は、箱根の彫刻の森美術館のみだった。
ヤマシロヤで店頭販売をして、結果が良好だったため、後にお店の中での販売も決まった。二店舗目ができた。でも、ただの二店舗目ではない。特別な二店舗目だった。


ヤマシロヤ店頭販売イベントの様子

ヤマシロヤ1階売場レジ横での展開


どれだけ特別なお店かということを説明するために、高校生の頃の話をする。

高校は埼玉県の普通科の高校に通っていた。中学高校とバスケ三昧の毎日を過ごしていた。理系の大学に進学しようと思っていたが、高校二年生の時に美術大学への進学を意識し始めた。ちょうどバスケ部の先輩が二人、美術予備校に通っていた。先輩に紹介してもらって同じ予備校に通い始めた。美術大学に行くには、デッサンやデザインを学ぶたのめの美術予備校というものに通うのが王道である。
高校三年生の夏、大会に負けて部活が終わり、本格的に予備校に通い始めた。
部活というものはよく考えると悲しいもので、全国の中で1校だけしか勝ちで終われない。その他は全員、例外無く「負け」で終わる。6年間バスケに捧げた人生は終わり、17歳から美術の道が始まった。

月曜日から土曜日まで予備校に行く生活。たまに日曜日も予備校に忍び込んでデッサンをしていたけれど、日曜日はリフレッシュの日にしていた。あまり行ったことのない街に行ってブラブラするということをしていた。下北沢、高円寺、吉祥寺、上野など。ヴィレッジヴァンガード、本屋、古着屋、雑貨屋さんなどを見てまわっていた。
ある日、上野を歩いていたら一階から最上階まで全フロアがオモチャ屋さんのとんでもないお店を見つけてしまった。オモチャやフィギュアが大好きだったので大興奮だった。それから、日曜日はそのオモチャ屋さんに通うことにした。

でも、二回目に行く時はそのオモチャ屋さんを見つけることができなかった。一回目の時は御徒町の方まで歩いて、ぐるぐる回ってたどり着いただけだから、場所を知らなかった。お店の名前も覚えてなかったし、インターネットで調べることもしなかった。当時はスマホは無い。携帯は持っていたけど、今のスマホのように検索をするためのインターネット接続ではない。デコメや着メロや待ち受け画像をダウンロードするようなのが携帯電話のインターネットだった。パソコンのインターネットなんて、いちいち電話回線に繋いでピーヒョロ言いながら接続する。
あのオモチャ屋さん幻だったのかと思いながら歩き回って、探しに探して、やっとたどり着いた時に判明したのは、そこは上野駅の目の前だったということ。上野のヤマシロヤだ。

高校生のときに集めていたコレクション。写真は2010年(20歳)。


大学生になってもヤマシロヤは自分の中の聖地だった。大学一年生のときに、もにまるず(100ANIMALS)をつくる前に、まずヤマシロヤに行って似ている商品がないか調査した。そして目指したい雰囲気やパッケージの資料として、いくつかオモチャを購入した。もにまるずが100種類いるのは、たくさん並んでいて「わー!!」と見回してしまう感じや「どれにしよう!!」とワクワクしながら悩むような、ヤマシロヤで感じた高揚感を生み出そうと思って作っていた。
もにまるずにとって、ヤマシロヤは原点のような場所だった。


2007年大学1年生の作業机。奥の壁に飾ってあるのがヤマシロヤで購入したオモチャ資料。
トトロ・スポンジボブ・RODY・カピバラさん・TOFU OYAKO・ドラクエなど。


最初に資料として買い集めたオモチャの、そのときのレシートはまだとっておいてある。
よく見ると、RODYやカピバラさんのホワイトさんがあることが、コラボに繋がる伏線だったように思えて感慨深い。
このコラボのつながりだけではなく、思ってもいなかったところでも驚くような繋がりがあったことに気がつくこともある。2016年に気がついたことだが、そのレシートを見返していてレジ打ちをした店員さんの名前をふと見た。その方は後に別のお店でもにまるずの担当になる方の名前だった。

2007年7月1日ヤマシロヤのレシート。いつか見せる日が来ると信じていたのでとっておいていた。
原本のレシートは印字がもう薄くなってしまってほとんど読めないため、スキャンしてデータ化した。


もにまるずを作り始めるときにオモチャの資料を買って、そのレジ打ちをしてくれた方と数年後に仕事をすることになっていたのだ。奇跡のような巡り合わせだ。もにまるずには、こういう奇跡みたいなことがしばしば起きる。人生の伏線は、巧妙に張り巡らされていて、もっと年月を重ねて俯瞰してみたときに、いったいどんな構造になっているのだろう。

昔話になってしまったが、ヤマシロヤと自分はこんな関係にある。もにまるずは2011年の当時は800円だった。オモチャとしては高価だけど、それでも「これはいい商品だ」と理解してくれたスタッフさんがいつも全力でサポートしてくださった。もにまるずは、ヤマシロヤに育ててもらったとも言える。

お取り扱いが始まってから、さらに全力で制作をすることになった。毎日、朝から夜まで作っていた。作れる数に限界があって、品切れにもよくなった。それでも体力の限界まで作る日々だった。またとない、せっかくのチャンス。憧れのお店。全力の日々だった。大学時代も、このときも、できることは体力の限界までやった。人間らしい生活なんて二の次だった。全てが制作だった。2017年の今は、自分が倒れるわけにはいかないから全てを体力まかせでやっているわけではないけど、思いは同じだ。

それは、さきほど書いた高校時代の部活での悔しい思いがあるからだ。誰もが「負け」で終わる部活で学んだことが身にしみているからだ。高校時代のメモを読んでもらえれば、なんでこんなに全力で活動をするかがわかってもらえるかもしれない。

高校生時代のメモ。
画像クリックで拡大。


部活は負けた。でも、自分には勝てる。
時には負けても、また勝てばいい。

今でも、この青い気持ちで生きている。





2017年6月26日月曜日

2011年5月 もにまるずが新しいスタートを切った記念すべきデザインフェスタ

2011年の5月にデザインフェスタに出展した。このデザフェスは3回目の出展で、15種類の販売だった。



もにまるずは、ベーシックな種類が100種類いる。今では様々な色違いや、コラボ商品があるが、100種類がベースとなっている。この100種類の原型自体は学生の頃に完成していたが、販売はしていなかった。

100種類の型を増やす時間もなかったし、お金もなかった。100種類というのは本当に大変だ。全ての作業が100倍でのしかかってくる。パッケージに1箇所の変更を加えると100箇所の変更をすることになる。原型を増やしてシリコン型を作るのに1種類に5時間かかるとしよう。すると500時間もかかる。本当はもっとかかる。シリコン型を作るのに1種類1000円かかるとすると、100種類で10万円もかかる。実際はもっとかかる。お店に納品する商品を作るだけで精一杯な状態で、新作の原型を増やし、シリコン型を増やし、商品を制作するのは困難だった。

100種類を作るなんてバカみたいだと自分でも思っていた。クレイジーだと思っていた。だからこそ、やる価値がある。学生時代からのモットーは「誰にでもできることを、誰もやらないくらいやる」だ。1種類なら誰でもできる。1種類ずつ追加して、結果的に100 種類になるよりも、最初から100種を見せることによる説得力は段違いだ。

展示している原型は、全て石粉粘土という粘土で作られている。やわらかくない。実はこの原型を作っている段階では、やわらかフィギュアにする技術が追いついていない種類もあった。その種類の色が作れなかったり、形状的に無理があったりした。それでも理想の原型を先につくっておいて、技術は後からつけるつもりだった。最終的には技術が追いついて100種全てをやわらかフィギュア化することに成功するのだが、それは2年後の2013年の話。

デザンフェスタの話に戻る。大学4年生の時に出展した1回目の時は、一人で3ヶ月かけて準備して6種600個を販売し、完売した。2回目も4年生の11月で芸術祭、卒業制作の提出、デザインフェスタが立て続けだったこともあり、4種程度で300個程度だったかもしれない。一応書いておくけれど、もにまるずも全力だったけど、芸術祭も、学校の課題も卒業制作も全力で取り組んでいた。

毎回、体力ギリギリで制作をしていて、大学を卒業して初めての2011年5月のデザインフェスタも満身創痍で出展した。1期生のスタッフと作った商品たちと、限定の光るシロクマを販売した。ぼんやり光る蓄光もにまるずだ。あとは、ゲームセンターのプライズ商品のお話を学生の頃にいただいていて、その初回品を販売させていただいた。トートやTシャツ、缶バッジも作った。

全力のデザインフェスタだったが、正直に言うとデザインフェスタの様子はあまり覚えていない。当日の朝まで制作をして、気合いでビッグサイトまで運転して行っているから、当日の自分は使い物にならない。頑張って売り子をするけれど、体力がまったく足りない。そんなだから、この3回目のデザインフェスタから、後輩に売り子をお願いすることにした。今も続いている「もにスタッフの売り子」スタイルができたのは2011年のこの時から。正確には、この時は1期生のお手伝い期間が終わっていて、2期生が入る前だから、もにまるず制作スタッフではなくて大学の後輩であり、予備校講師をしていたときの教え子だった後輩にお願いした。

1日目が終わったら、工房に戻って少しでも追加分を作って、翌日に持っていく。せっかく買いに来てくれた方々を残念な気持ちにはさせたくない。それでも作る限界があって、このデザインフェスタもほぼ完売だった気がする。完売は嬉しいけど、悔しいことでもある。
二日目の撤収作業を終えたとき、暑さと疲労で目の前が真っ白になって、ベンチで横になって、動けなくなったのを覚えている。帰りの運転は一緒にいる仲間にしてもらい、美味しい焼肉を食べて元気になった。それだけはよく覚えている。

こんなに細かく書いてきたが、この3回目のデザインフェスタは、ただ疲れて倒れて、焼肉を食べて元気になった話ではない。このデザインフェスタは、今に至るまでの日々が始まったと言える記念すべきデザインフェスタだった。

このデザインフェスタが終わった数日後に、有名な玩具店の上野のヤマシロヤさんからご連絡をいただき、イベント販売が決まった。高校生からの憧れのお店だ。さらに、天下の東京タワーさんとのコラボのお話をいただいた。

今考えると、玩具店での販売や企業キャラクターとのコラボという、今の活動の大きな二つの方向性の始まりだった。

大学を卒業して1ヶ月目にして、強い追い風が吹いた。大学の芸術祭から始まった「もにまるず」は、デザインフェスタで新しいスタートを切った。

大学を卒業してすぐにクリエイター活動だけで生きていくのは不安だらけだ。生活の全てをかけて作っていた。何かいいことが起こってくださいと祈るような日々と、そういう結果がでるように全力で作る日々。もにまるずは、もっともっとすごいんだ、可能性があるんだ、という自信と、焦る気持ち。

真っさらで何もない目の前の景色に、道が見えてきた瞬間だった。

この時の嬉しさは忘れない。

2017年6月25日日曜日

2011年4月 もにまる工房がはじまった

今は6月。ちょっと暖かくなってきて、夏の訪れを感じるこのくらいの季節になると、もにまるずを作り始めた頃のことや、もにまる工房を始めた頃のことを思い出す。

2012年 もにまる工房

もにまるず(当時の作品名は100ANIMALS)を作りはじめたのは、武蔵野美術大学に入学してすぐの2007年の5月か6月だった。そのときは18歳で、今は28歳。そこから数えて満10年が経った。

在学中の4年間「もにまるず」を作り続け、2011年3月に武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科を卒業した。2011年4月からすぐに「もにまるず」をつくるクリエイターとしての活動を始めた。これを書いている今は2017年6月。大学を卒業してからは満6年の月日が経った。

大学時代のことはすでにブログに書いていて、2013年10月に「もにまるずヒストリー」という本にまとめた。その後のことを書かなければと思いながら、ずっと書けずにここまできた。学生時代の話は時系列に書けばわかりやすいし、自分の話ばかりだから書くのは比較的簡単だった。卒業後の話となると、仕事になったわけだから自分だけの話ではないし、出来事も複雑に絡んでいて、なかなか書くのが難しかった。

なによりも、書く時間がなかった。「忙しい」という言葉は日常でもSNSでもほぼ使わないようにしているけど、特に2013年からは控えめに言っても「忙しかった」のだと思う。というか、当たり前だけど、書くことよりも他のことの優先順位が高かった。

そんなこんなで「もにまるずヒストリー」を書いてから4年が経ち、今になってしまった。
4年も経てば考え方は変わるし、本当にどんどん記憶が薄れてしまうので、少しずつでも書いていかないと永遠に忘れ去ってしまうような気がして、書かなければという思いが強くなってきた。

過去を語らずにどんどん進む人はクールでカッコイイ。でも自分は過去のことを大切にして、できる限り記録に残して、そういうバックグラウンドも含めて、活動全体を作品としていきたいと考えている。

「現在が一番大切だ」とか、「これからの未来に何をするかが重要だ」とかすごくわかるし実際にそのように行動をしているけれど、同じくらい「過去」も大切だと思う。自分にとっては「過去」の話でも、後輩にとっては「未来につながる」話かもしれない。かっこよくなくても、泥臭くても、過去を記録していく姿勢はやっぱり自分にとって大切だから、少しずつでも書き始めていこうと思っている。

さて、言い訳めいた前書きが長かったが、この季節になるとやっぱり思い出すのは、もにまる工房が始まった頃のことだ。

最初の工房は2DKのアパートだった。普通の賃貸物件だ。6畳のフローリングが一部屋、同じく6畳の畳の部屋が一部屋で、4畳程度のダイニングがあるような、ごく普通の2DKだ。ダイニングとお風呂場は物置になっていた。

この物件を借りたのは実は大学4年生の9月頃だった。とある場所からの帰り道、父と車に乗っていて「今、何に一番困っているか」と聞いてきた。「場所だね」と答えた。そのまま不動産屋に直行して、不動産屋さんに相談をして、内見をした。そしてその日に契約してもらった。父は即断即決の男だ。父は自営業ということもあり、クリエイター活動(起業)への理解があったからこそ、もにまるずがここまでやってこられたのは間違いない。

学生のときは毎日は使っていなかったけどそこは作業場になっていて、卒業後に本格的に「もにまる工房」になった。

2011年の4月、初めての「もにまるずスタッフ」を雇うことにした。母校の武蔵美に行って貼り紙をした。最近はツイッターでの募集をかけたりするけど、最初は貼り紙だけだった。ツイッターがまだまだメジャーではなかった頃の話だからだ。

最初のスタッフは2人。視覚伝達デザイン学科の後輩。実は同じマンションに住んでいたから、小学校のときに同じ通学班だったこともある。自分が班長で、歩くのがめちゃくちゃ速くて申し訳ないことをしたと思っている。ただ、はやく学校に行って1分でも多くバスケをしたかっただけで、悪気はなかった。もう一人は空間演出デザイン学科の学生で、学校の貼り紙を見てメールをくれた。

まだ、マニュアルも何もなかった頃の話だ。トラやひつじの茶色の顔料を、赤・黄・黒を混ぜて、色を目で合わせていた時代だ。もにまるずを塗る塗料は皿に出すと30~50分で使えなくなってしまう。それなのに、毎回毎回、その三色を調合していた。茶色だけではない、うさぎのピンクも、カメの甲羅の黄土色も、全ての色を毎回毎回、原色を調合してやっていた。すごく効率がわるい。調合だけでなく、全ての効率が今とは桁違いでわるい。今のもにまるずスタッフで、その時代のことを知っている人はもう一人もいない。

この2人は、5月のデザインフェスタに向けて商品を作るための期間限定スタッフだったので、デザフェスが終わったらまた自分一人での作業になった。
その次に、2011年の7月頃、2期生のスタッフが2人入ってくれた。この2人は大学の同級生だ。ちょっとアルバイトを探しているという状態だったので、手伝ってもらっていた。この2人とも、実は学生時代はそこまで一緒にいなかったけど、卒業してから仲良くなったという2人だった。それぞれが大好きな音楽を流しながら、くだらないことを話しながら作っていた。自分が大好きなウルフルズ・ジュディマリ・イエモンなどが大音量で流れていた。
今の「もにまる工房」では、日本語の歌詞の音楽は禁止で、ジャズ・クラシック・ボサノヴァなど、作業の邪魔にならないような曲だけが流れている。
この2人とは半年ほど一緒にいて、就職が決まったなどして、もにまるずを卒業した。

2期生までは、ここから入ってくる3期生とは別枠というか、もちろんお給料はお支払いするけど「お手伝い」という感じだった。3期生からツイッターでの募集をし、面接と試験をして本格的にアルバイトとして採用することになる。いまの「もにスタッフ」の原型が作られた世代だ。
そこから2017年現在に至るまで、たくさんのスタッフが入り、そして卒業していった。現在のスタッフも入れて60名以上だろう。もちろん全ての人がスタッフになれるわけではないから、100人は面接をしてきたと思う。15期生くらいまではカウントしていたが、最近のスタッフはツイッター募集ではなく、個別に入っていきているので何期生とか、そういうのはもう無い。

「もにまる工房」とは、場所だけの話ではなく「もにスタッフ」という美大生の学生アルバイトスタッフを雇って一緒に制作をするというスタイルのことをいう。

スタッフを雇い始めた、なんて簡単に書いたけれど、相当な覚悟が必要だった。

人を雇うということは覚悟が必要だ。
採用して、雇い続ける覚悟。
面談と試験をしてお断りする覚悟。
実は、採用をしないでお断りするほうがずっと難しい。もにまるずを好きで来てくれて、それでもお断りするのは、本当に心が痛む。喩えではなく、胃が痛くなる。

普通の美大卒業生では、人の雇い方なんて知らない。じゃあどうしたか。勉強するだけだ。簡単ではあるけれど、雇用契約書をつくって、労働基準法を勉強して、源泉徴収とかも勉強する。

美大を卒業して、真っさらで何もない状態から活動を始めると、わからないことだらけだ。足りないものだらけだ。

でも、たったひとつのシンプルな考え方でやってきた。

「ないものはプラスすればいい」

人手が足りない?雇えばいい。
雇い方がわからない?勉強すればいい。
雇うお金がない?その分、自分が作りまくって稼げばいい。



簡単ではないけれど、シンプルだ。

起業をすると、まずは何でも自分でやらなくてはいけない。大変だ。
でも、考え方は単純だ。
わからないことは、わかればいいし、できないことは、できるようになればいい。

こうして始まった「もにまる工房」と「もにスタッフ」制度。

なんとなく涼しさが気持ちいいこの季節になると、大変で苦しくて、根性で乗り切って、夜中まで作業して、この2DKは伝説の始まりの時代なんだと自分に言い聞かせて、壮大な夢を見ていた2DKを思い出す。