大学を卒後して初めてのデザインフェスタも大成功に終わり、嬉しい連絡をいただいた。上野のヤマシロヤのスタッフさんから店頭販売のお誘いだった。これは本当に嬉しかった。
2011年6月、もにまるずをお取扱いしてくださっているお店は、箱根の彫刻の森美術館のみだった。
ヤマシロヤで店頭販売をして、結果が良好だったため、後にお店の中での販売も決まった。二店舗目ができた。でも、ただの二店舗目ではない。特別な二店舗目だった。
| ヤマシロヤ店頭販売イベントの様子 |
| ヤマシロヤ1階売場レジ横での展開 |
どれだけ特別なお店かということを説明するために、高校生の頃の話をする。
高校は埼玉県の普通科の高校に通っていた。中学高校とバスケ三昧の毎日を過ごしていた。理系の大学に進学しようと思っていたが、高校二年生の時に美術大学への進学を意識し始めた。ちょうどバスケ部の先輩が二人、美術予備校に通っていた。先輩に紹介してもらって同じ予備校に通い始めた。美術大学に行くには、デッサンやデザインを学ぶたのめの美術予備校というものに通うのが王道である。
高校三年生の夏、大会に負けて部活が終わり、本格的に予備校に通い始めた。
部活というものはよく考えると悲しいもので、全国の中で1校だけしか勝ちで終われない。その他は全員、例外無く「負け」で終わる。6年間バスケに捧げた人生は終わり、17歳から美術の道が始まった。
月曜日から土曜日まで予備校に行く生活。たまに日曜日も予備校に忍び込んでデッサンをしていたけれど、日曜日はリフレッシュの日にしていた。あまり行ったことのない街に行ってブラブラするということをしていた。下北沢、高円寺、吉祥寺、上野など。ヴィレッジヴァンガード、本屋、古着屋、雑貨屋さんなどを見てまわっていた。
ある日、上野を歩いていたら一階から最上階まで全フロアがオモチャ屋さんのとんでもないお店を見つけてしまった。オモチャやフィギュアが大好きだったので大興奮だった。それから、日曜日はそのオモチャ屋さんに通うことにした。
でも、二回目に行く時はそのオモチャ屋さんを見つけることができなかった。一回目の時は御徒町の方まで歩いて、ぐるぐる回ってたどり着いただけだから、場所を知らなかった。お店の名前も覚えてなかったし、インターネットで調べることもしなかった。当時はスマホは無い。携帯は持っていたけど、今のスマホのように検索をするためのインターネット接続ではない。デコメや着メロや待ち受け画像をダウンロードするようなのが携帯電話のインターネットだった。パソコンのインターネットなんて、いちいち電話回線に繋いでピーヒョロ言いながら接続する。
あのオモチャ屋さん幻だったのかと思いながら歩き回って、探しに探して、やっとたどり着いた時に判明したのは、そこは上野駅の目の前だったということ。上野のヤマシロヤだ。
大学生になってもヤマシロヤは自分の中の聖地だった。大学一年生のときに、もにまるず(100ANIMALS)をつくる前に、まずヤマシロヤに行って似ている商品がないか調査した。そして目指したい雰囲気やパッケージの資料として、いくつかオモチャを購入した。もにまるずが100種類いるのは、たくさん並んでいて「わー!!」と見回してしまう感じや「どれにしよう!!」とワクワクしながら悩むような、ヤマシロヤで感じた高揚感を生み出そうと思って作っていた。
もにまるずにとって、ヤマシロヤは原点のような場所だった。
最初に資料として買い集めたオモチャの、そのときのレシートはまだとっておいてある。
よく見ると、RODYやカピバラさんのホワイトさんがあることが、コラボに繋がる伏線だったように思えて感慨深い。
このコラボのつながりだけではなく、思ってもいなかったところでも驚くような繋がりがあったことに気がつくこともある。2016年に気がついたことだが、そのレシートを見返していてレジ打ちをした店員さんの名前をふと見た。その方は後に別のお店でもにまるずの担当になる方の名前だった。
もにまるずを作り始めるときにオモチャの資料を買って、そのレジ打ちをしてくれた方と数年後に仕事をすることになっていたのだ。奇跡のような巡り合わせだ。もにまるずには、こういう奇跡みたいなことがしばしば起きる。人生の伏線は、巧妙に張り巡らされていて、もっと年月を重ねて俯瞰してみたときに、いったいどんな構造になっているのだろう。
昔話になってしまったが、ヤマシロヤと自分はこんな関係にある。もにまるずは2011年の当時は800円だった。オモチャとしては高価だけど、それでも「これはいい商品だ」と理解してくれたスタッフさんがいつも全力でサポートしてくださった。もにまるずは、ヤマシロヤに育ててもらったとも言える。
お取り扱いが始まってから、さらに全力で制作をすることになった。毎日、朝から夜まで作っていた。作れる数に限界があって、品切れにもよくなった。それでも体力の限界まで作る日々だった。またとない、せっかくのチャンス。憧れのお店。全力の日々だった。大学時代も、このときも、できることは体力の限界までやった。人間らしい生活なんて二の次だった。全てが制作だった。2017年の今は、自分が倒れるわけにはいかないから全てを体力まかせでやっているわけではないけど、思いは同じだ。
それは、さきほど書いた高校時代の部活での悔しい思いがあるからだ。誰もが「負け」で終わる部活で学んだことが身にしみているからだ。高校時代のメモを読んでもらえれば、なんでこんなに全力で活動をするかがわかってもらえるかもしれない。
今でも、この青い気持ちで生きている。
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